昭和41年02月17日 朝の御理解



 昨夜、御祈念を終わりましてからね、私はちょっと御用がございましたから、二階で御用させてもらって降りてきましたら、まぁだ五六人の方が、下で朝の御理解を頂いておりました。テープで。朝の御ご理解じゃなくて前の晩、だから昨日の晩の御理解を頂いておりました。ちょうど私が降りました、それで終わりました模様ででしたから、あのもう一時過ぎておりましたから、まぁ帰ろうとされますから、私がはぁ昨日の晩の御理解を頂いたら、今朝の御理解を頂かにゃて、私が申しましたもんですから。
 それからまたあただに、前の晩の御理解と、昨日の朝の御理解を引き続いて、まぁ頂かれることになったんです。ところがもう、私が降りてくるまでと言う風で、時間つぶしに御理解を頂いておられたというわけでもないでしょうけれど。まぁみんな、はぁこらまた朝の御理解を、頂かんならんと言った様な雰囲気を感ずるんですね。私も一緒にここで頂きながら。ここで頂いているんです。ね。
 ですから、私あの今日はあの、あそこへ頂いとったカステラがあろうがの。あれみんな一切れづつ切ってから持って来いと言うて、まぁ私は御理解頂き終わってから、そのカステラでも、出させて貰うて、まぁ皆さんに話したことでございます。本当に私は思うんですけれどもね。あの御理解を、あの皆さんが頂いて下さる、ね。それを熱心に頂いて下さると、本当に何か知らんけれど、こう私自身が有難うなって、おやつの一つも出したいごとなるち言うた。ね。
 もう実を言うたら、今私はもう本当に、睡眠をとらなければならない、十分取らなならんのですけれども、他の養生だけは出来ましたっけれども、睡眠をとるということだけは出来んのですよね。朝はこんなに早いし。晩はどんなにしても十二時にはなるんですよ。もう昼は全然、私そちらへ四時まで控えておりますから、休まれんでしょう。四時からは、今散歩でしょう。ですからもう全然休む暇がないです。
 ですから本当言うたら、十一時でも、十時半でも帰ってもらって、もう十一時にはぴしぴしゃっと寝たいんですけれどもです。ね。もう本当にこら私自身がです、ね。昨日でも私ここへ座らせて頂いてから、私がここで十二時まで座っておる間に、それこそもう、五回も六回も、次々とまぁお参りをしてきた方達が、繰り返し繰り返し、やはり昨日の朝の御理解を頂いてるんですよ。ね。それを頂きながら、私自身がですね。非常におかげ頂くです。はぁ本当に何べんでん、何べんでん喧しゅう。
 そんなことは全然思わないです。いやむしろ私はここからよう聞こえる、少しボリュームを出してから、あの大きくして聞けと、こっから聞こえませんもんですから。そう言うくらいです。なのに皆さんはどういう様なもんだろうと、私は思うです。本当言うたら、私、御理解説かせて頂いたら、後で皆さんに聞きたい。今日の御理解は皆さんどこが、頂きどころだったと思うですか。それはどこという事はない。そら信心の程度程度に応じてから頂くのでございますから、ね。
 どんなに枝葉のところを頂いても良いですけれども。段々御理解のこれはどこを分からせよう。これはどこを頂かせようとするところの、言うなら大意をです。ピシッと掴んでから、頂けるようにならなければいかないと思うのです。それでもし許されるものならば、今日はあんた今日の御理解はどこが有難い、どこを頂いたねとこう聞きたいんです、本当は。ところが神様はこれはもう、だから私は聞いた事がないでしょうが。
 これは、私ある教会の先生のお話を聞いたことがあるんですけれども。あのよそから講師の先生方が見えますとですね。みんなそのこうやって、先生方が頂かれる。そしてその後に必ず今日の御理解の、どこが有難く頂いたか。ここはどう思うたかと言う、先生の質問がある。ですけん眠るわけにいかん。本気で頂かんわけにいかんわけです。ね。それでそれに対しての答えが出来るくらいに、やはり頭も使い心も使いして、御理解を頂かんわけにはいかん訳です。
 ところが椛目の場合は、私それを聞かんから、分かっとらんでん、分かった風をしてから帰りなさら良い訳ですたい。ね。夕べも私は本当に、その分かっとらんです。けども本当に、御理解ばっかりは何べん頂いたっちゃありがたかち言いよる。口じゃ言いよりなさるばってん。ほんならどこが有難かったのちいや、恐らくお話しが出来なさるまいと思うてから、私がかいつまんでお話をしました、また。何故てその折角、三十分なら三十分板だいとりなさってから。
 はぁもう帰ろうと思いよったが、また先生がまた夕べの御理解頂け、今朝の御理解頂けと言うもんだから、頂かんならんという様な雰囲気を、ちょっと感じたからですよ、私は。ね。ですから私が思うんですね。例えば皆さんが、本当に朝の御理解なら朝の御理解を頂いて、ね。例えば五分でも十分でも、あちらで色々雑談でもする間があるなら、今日の御理解は有難かったが、あんたはどこを頂いたのと、こう例えばその共励しあうようなです。雰囲気がなからなければ勿体ない。
 椛目の御理解は、もう絶対、私のだけじゃないです。夕べも申しました。そらもう眠りながらでんよか。本当はただ分からんなりにでも、あれは神様のお言葉として頂きゃおかげ頂く。分からんでも。それはあれは何ですかね、あの仏教で般若心経かなんかでしょうか。こんな厚いあの経文がありますよね。あれをもう経文はもう読まん。けれどもこのなかには、有難い経文が入っておるから、それを頭の上にばらばらばらばら、あれは何と言うでしょうかね。あんなのがありましょうが仏教で。
 頭の上で経文を、ばらばらばらばら、こうそのいわば浴びせるようにかけてある、なんかあんなことがありますよね。私は子供の時どこでか、あんな事を受けたことがありますよ。そしたら婆が言いよりました。ね。あれば頭にすると頭がようなるち。あぁた覚えんもんでん、学校で覚えるようになる。もうあれが有難ぁい経文がその、じゃから聞かんでん、ばらばら言わせて頂くだけでん、おかげ頂くんですけんね。そらそうでしょうね、以前ほら、荒木さんと言うのが居りましたでしょうが。
 耳がもう全然聞こえないのです。ね。それでもやっぱりあの、御理解を頂くと、涙をぽろうっと流しよりましたもんね。あら御理解のあらお徳に、本気で触れておる姿であると私は思いますですね。ですから訳が分かっても分からんのでも、いわば眠りながらでもです、頂いてもおかげ頂くです、御理解と言うものは。そのくらいなお徳があるもんです。私はこうやって、御理解を説かして頂いておるのは、何時もこら毎日のことですけれども、ここの御霊様が、全部頂いておられます。
 御霊様もやはり自分の心を、ね。いわば助かった御霊ばかりじゃありませんから。皆さんと同じですから。御理解を頂いて、悟りを開いていく。心を開いていく。思い方が変わってくる。ね。その御理解にこう、浴するわけなんですよ。皆さんがおかげを、本当にそれを、例えば理解力を、皆さんがだんだん身に付けられて分かられる。椛目にはこう言う向きもあるですもんね。もう椛目に来たっちゃ御理解なんか、全然頂いて帰らん人がありますもん。もう先生が、どげなこつ言いなさるか分かっとる。
 もう私が少し話したら、はぁ今日は先生は、こう言う事ば、言おうと思いよるばいなち言うて先の先まで、分かっておる人がある。これはしかし早合点と言うものです。私自身が毎日、毎日頂いて、毎日、毎日、新しいいわば、知識を得て行きよるのですから。私自身が毎日、毎日、有難いものを頂いておるんですから。御理解てそんな安っぽいもんじゃない。本当言うたら頂いた上にも頂かせて貰うて、分かるのであり、また頂けば頂くほどです、おかげを頂きます。
 私の母だん、分かるか分からんか知らんけれども、御理解ばここで、誰か聞きよりなさると、必ず二階から降りてきてから、やっぱり朝の御理解を、何回も何回も、繰り返し繰り返し頂いております。ね。その頂く御理解がです、ね。本当にそれが理解力が出来る。はぁ今日の御理解、なんにでも大意と言うのがあるですから。はぁ今日は先生が、先生がじゃない。神様が私共に何を、どこを中心に、分からせようとなさっておられるかと言うことなんです。ね、それは枝葉でも良い、ね。
 枝葉でも良いけれども、今日の御理解の頂どころは、ここだとこう、頂かせて貰うて、それを自分のものに、血に肉にしていくという事が、有難いのです。椛目で私はそれを申しません。今日の御理解は、皆さんどこが有難かったか。どこを頂いたかと、例えば私が聞くならです。皆さんも眠かったっちゃ、眠りも出来まい。又は本気で頂もなさろうけれどもです。これを許されないということは、どう言う様な事だろうかと、私は思うのです。そんな事を、皆さんとにかく、さぁまぁ早う帰りたいのじゃから。
 お茶でん頂いて早う帰りなさいというて、皆さん帰しました後に、また御祈念させて頂きよりましたら頂くことです。ね。私があの丁度洋風のあの板場さんですね。あのコックさんです。白い帽子をかぶって白いあのエプロンを着てですね。洋食皿の様な物をこう持って、こうあのお客さんの前に出しておるような状態を頂くんですね。ははぁこりゃどう言う様な事だろうか。ね。私は神様から頂く。又私がその頂いた、その御教えをいわばヒントにそれを、私のものにしていくために、何回も何回も頂くという。
 聞くだけではなくて、それを生活の上に現していく。神様から言うなら、材料を与えて頂いて、その材料を調理するのは、お前の役ぞとこういう事。ね。だからお前自身が、甘い辛いを良く分からせて貰うて、これは美味しい。自信を持ってお勧めが出来るというところまで、いわばここにお参りをしてくる信者、一人ひとりの上にそのことを与えなければ、信者が頂くも頂かんも、お前の調理の仕方、加減一つだということを頂きました。ははぁこれでは皆さんが、美味しゅう頂かれないはずだ。
 これじゃ頂かれないはずだと。ね。いよいよもって、これは私自身が、これを本気で頂かせてもらい。良い味の付けられる、私にならなければいけんなという事を感じたんです。ね。皆さんどうでしょうか、こら私がこれは、思い過ごしかも知れません。ね。分かったような風にしとるが、大体どこを分かりよるじゃろうか。もう合点ばかり、こうして頂きよるばってん、本当分かりよるとじゃろか。分かっただけじゃつまらん。本当にそれを行じよるじゃろか。
 本気で分かって行じよるなら、もちっとおかげのほうが、垢抜けしなければならんのに、どういうわけだろうかと。これは何時も、が思うことなんです。けれどもです。本当に、椛目の御理解はですね。もう頂いたけん、もうよかという事は、絶対無いですよ、本当。ね。もう本当に少し巧者になりますとですたい、ね。もうその証拠にはですね。昨夜の御理解を頂かせて下さいという人が無いです。
 朝の御理解を頂いて、勿体ないです。これほどしても、毎日こうやって、これを記録に取りなさいますけども、それを二回分まで、取ることは出来んです。やっぱり朝の分だけで、やっとかっとでしょうもん。だから夕べの御理解だけは、ころっとどこさんか、行ってしまうようなもんです。ね。こりゃもう忙しいのに、どうとこう言うことじゃないけれども、さぁ今日はゆっくり、そのまぁいうならばです。今日も雨の降るけん、売りゆきしとるけん。
 今日はいっちょゆっくり、御理解どん頂いてくるぞと、いう様なですね。ものがなからなければいけんのじゃないだろうか。昨日も、私皆さんに申しました。あぁた方、椛目に参ってきて、御理解頂くとは、当たり前のように思うとるけれども、ね。こらもう他所の教会ではですね。さぁ、明日の朝の御理解は、どげな御理解ば説こうかと思うてから、前の日から一生懸命勉強してです、それてちゃもう種が尽きてから、何を話して良いやら分からんと言う教会が多いんですよ。
 ですから結局それを、書き抜きにしておいて、読まれるぐらいのことが、勢の山ですよ。まぁ普通では、御祈念をするばっかりですよ。ね。もう椛目でこそ本当に、これこそ朝に晩にこうやって、ふんだんに、あんまり頂き過ぎとるからかも知れんけれども、又は調理の仕方が悪いからかも知れんけれどもです。ね。私自身です。もう私自身が先ほども申しますように、五回も六回も頂いても、頂き飽かんのですから。と言うて私はひっ捕まえてから、今朝の御理解ば頂いて行きなさいとは言わんと言うのが。
 まぁ私の流儀でもあるなら、神様のやはり御神意の深さは、どこにあるかは分からんのだけれども、聞くこともいかなければ、それを言うこともいけんから、私がここのほんなら、先生方ここで修行しておる方達がです。良い相談相手にならせて頂いてから、今日の御理解の頂きどころはここでしたね。皆さんここはどうでしたか。さぁどうぞ時間があるなら、ご理解いただいてお帰りなさい。何ちゃそういう様な親切なその、生き方あり方と言うものは無いものだろうか。私は何時も思うんです。ね。
 そのように、例えばほんなら、御理解というものはです。私自身も今言うように、五回頂いても、六回頂いても有難いのですから。私が言いよる。味にだけは自信があると、私は思うです、椛目の御理解は。ね。また頂いておることに対しては、こらもう絶対なんだと。ね。皆さんが例えば頂かれて、昨日大木から宮崎さんと言うお婆さんが、何時も参ってきます。私は朝の御理解ば、何時も頂いてから、覚えて帰ってこれを、うちの者にお話をすると言うておられます。ね。
 ですからそれを覚えて帰って、お話しでも出来るくらいにです。でなかったら頂きどころだけぐらいは頂いてです。そら椛目の御理解は、私昨日も何回も何回も聞かせて頂きながらです。私自身が難しいなぁと思うんです。言葉は私が無学ですから、平易な平凡な言葉を使ってますけれども、そのなかにある一つの真意とでも申しましょうか、ね。その深さ広さにおいてはもう、難しいはずだと。ですからその深さ広さというものはです。自分の信心の深さ広さによって、どこを頂いてもいいて私はね。
 けどもそれを私共日常生活の上に現していくという事。私は夕べの御理解に、御理解と言うよりも、夕べだけは、私はおかげ話をさせて頂いた。夜の御祈念の後に。昨日隣の定男さんが、皆さんもご承知のように、あの人子供の時に、脳膜炎を患うておりますもん。ですから、まぁ普通でいうならばです。まぁほんなもんじゃないです。ね。それでもまぁ、おかげを頂きましてから、あの今昔農学校ですか、追分のある鉄工所に勤めて、まぁ職員にこの頃ならせて頂いてから、あの人が出来る仕事があるんでしょう。
 毎日勤めておりますもん。ところがその夕べ帰ってきてから、そこで火鉢のところで、私の母に一生懸命何か話しよります。私はここへ夕方御祈念前、座っとったら。そしたら今日はその同じ職員の人が、何を間違えたか知らんけれども、とにかくもうでんぷをはじいたり、突き倒したりしたりそのしたち。そしたらそのそこの若大将が出てきてから、何とかかんとか言うちから、分からんなりですね。でんぱちからお前んごたるとは要らんけん、帰れち言わっしゃったげな。
 でそういうわけで、私をくらすんのち、しからその言うたら、言いよったらその、大大将が出てきてから、定男さんこっち来いち。ね。俺と二人で仕事ばする。こっちさん来いと言うてから、あの大大将が向こうさん連れて行って、大大将と二人で仕事をしたち。ね。もう本当に突き倒される時に、機械がどんどん回いよりますけんね。それ持っていくばっとるところを、後ろおった人が受け止めてくれたから、今日は私はここほんな後て、首に切れるごたる目に会うとこじゃったち。
 けどもおかげ頂いたち、私は叩かるる時にですね。もう心の中で、もう一生懸命、金光様、金光様ち唱えたち言うて、母に話しよるとですたい。ね。私は本当に毎晩参ってきます。そしてこうして、やっぱり御理解頂いてます。あの人もちった耳が遠いですから、分かりよるか分かりよらんか知らんけれどもですたい。ね。もうこれだけは心の中に、いよいよのときには、金光様、金光様でおかげを頂いておるということ。この人は時々逆上する風がありますですもんね、やっぱり。
 ですからもう本当にあの、怖いごたる時があるです。それをですたいね。私は本当にあの鉄工所ですから、腹けぇちから向こうでども覚えんごと叩いたり、怪我させても出来ん、しても出来んのですけれどもです。本当よう丁度若先生が、その話を聞きよってから、横さん行ってから、定男さんあんたおかげ頂いたのち。そるけんちこげなあんたこげんじゃったあげんじゃったち、人にどん話どんしなさんな、言いどんしなさんな。もう金光様、金光様で言わんがよかばいち言うてから、また言いよりましたけれどもね。
 その話を私は、昨日させて頂きましたら、幾人の方かがです。もう本当に朝晩、御理解を頂きよって、定男さんがたも、頂きよらんと言うてから、改めてお届けされた方がございましたけれどね。そうして本当に、御教えが役に立たなければ、なぁにもならんでしょうが。ね。それはです、ある意味合いにおいては、それは頂かん、そのこうやってばらばらばらばら、その般若心経じゃないけれど。浴びせられるだけでも、いくらかいくらかと言うが、効果があるに違いはありませんです。
 例えば椛目に、向こうてきたが最後、一足でも無駄にはさせんと仰るくらいなんですから。ね。けども折角頂いておるのであるし、またお互いがです。頂こうと思えば頂けるところの頭脳といい、理解力を持っておるのですから。今日の御理解は繰り返し、繰り返し、自分の心のなかに頂いてみて、今日の御理解は、どこが頂どころであったかと、ね。ここを頂いた。
 これを今日一日の、昨日の朝の御理解で言うならば、携行食とでもさせて頂こうというふうにです。ね。行の上に現していかなければいけんです。私は今日皆さんに、一言申しておきたいと思います事はですね。私は御理解を頂いたら、必ずおかげになると、こう申しますですね、行じたらという事は、そのおかげという事はですね。必ず自分の思うようになるという事だけじゃないです。これはあの何時か、高芝さんでしたか、御理解に頂かれたことがあるんですけれども。
 しゃんとすりゃ損するという御理解を頂かれたことがあるですよね。あのシャンソン化粧品と言う。あの御理解を頂いたんです。御理解を頂くでしょう。心がしゃんとするでしょう。そうすると却って損すると言った様な事があるという事なんです。ね。例えていうならばです。そるけんと言うて、やっぱ御理解頂いたっちゃ、おかげ頂きらじゃったと言うて、止めたらもうそれまでです。何故てそうでしょうが。
 はぁ本当に今朝の御理解は有難かった。有難かったと言うて帰るもんじゃから、本当にどのくらい有難かじゃろかと思うてから、神様が、私は試してみな去るのじゃないかと、こう思うんです。ね。しゃんとすりゃ損する。そこんところを教祖の神様はですね、信心しておって、変わった事が起こってきたら、有難いと心得て信心せよと仰る。ね。ここんところが一番大事なんです。ね。
 今日は、私はもう一日朝の御理解を、心の中に頂き続けて、そのことに行じ抜かせて頂いた。そしたらこう言う有難いおかげを頂いたと、いう事もありましょう。それが普通です大体。定石ですけども時にはです、本当にあれが分かったと言いよるが、有難いと言いよるが、どのくらい分かっとるじゃろか、どのくらい有難いじゃろうかと言う、言うならば、お試しがあることを知らなきゃなりません。ね。しゃんとすりゃ損する。けどもその次がそれが化粧品になるのです。
 それが唯一あなたの心を美しゅうするのです。ね。だからこう言う所もある。そこを教祖は信心しておって、変わった事が起こってきたらという事は、ね。有難い変わった事だけではなくて、自分が損する様な変わった事が起こってきてもです、ね。それは神様の絶対のお働きなのだから、ね。そこを大事にしていかなければならん。信心をしておって変わった事が起こってきたら、そこを有難いと心得て信心させて貰う。ね。
 そこんところに繰り返しの、うまずたゆまずの信心修行が必要であるということが分かりますですね。どうぞ一つ皆さん、御理解を頂くたんべんにですね。今日の御理解は、どこをと言う、一つ大意を求めていかなきゃいけません。ね。そして分からなかったら、もう一遍テープででも聞かせて頂く、私はその稽古に、ここには来るところと仰るのですから、稽古して帰らにゃいけません。ね。そらほけぇんごとして、分かったやら分からんやら分からん。
 今日はお父さんどげな御理解じゃったと、えぇと今日はどげな御理解じゃったよち、いう様なことじゃいかん。ね。だから一言でも、今日の御理解の、ここが有難かったなら有難かった。分かったなら分かったというところをです。一人ぐらい伝えられれる、私は稽古をなさらにゃいかんと思う。ね。勿論私もいよいよ、その神様に頂いた、その材料を持ってです。いよいよ皆さんが食べたら本当に美味しいと、どんなにお腹が大きかったっちゃ、やっぱり頂きゃ美味しいと言われるくらいなです。
 調理のことには、いよいよま、工夫をして行く積りです。ね。いよいよ一等のコックさんになろうと思うんです。ですからやっぱ頂く方の側もです。例えば味が悪かってもです、ね。それを昨日の御理解じゃないですけれども、ね。例えば山登りでもしておる時には、おにぎりご飯に梅干でも美味しゅうして応えんのです。それを料理に現してそれを使うて、それを血に肉に消化していく働きと言うものがです、なされる時にどういう様な例えば、まずい食べ物でもお話でもです。それを有難く頂くことが出来ると思う。
   どうぞおかげ頂きました。